ぱらりる/ぱらりろ/

 

物語が好きな奴なんかバカだ。アホだ。クソだ。

生きている価値がない。死ね。

そこのほら、おまえだ。おまえに言ってんだ。

その物語じゃたりねえっていうのか? しかたがないな。

――俺はおまえへ語る

 

だれもが物語を生きている。

物語は、例だ。例は、なにかを指し示す。

この例はなんの例だ? 

わからない。

かけがえがない? 交換できる? 

知らん。

例によってしか思考できない。関係ない。関係の話はしていない。

 

抑圧をおそれるな! グルーヴしろ! 

 

今やわらかくあかるくあふれてくる、ことば。とめどないことば。

このことばは、どこにある? 

頭か? ハートか? 魂か? 違う。――ボディだ。

俺はボディが語る。スパークする。骨という骨ぜんぶがちかちかちかってしやがる。

 

過去形は語りたくない。俺は今しかない。現在進行形の、今。

 

とりあえず、生きている。こんなの望んじゃいない。おまえのせいだ。

俺は。十四歳の俺は。

重要なのはエッジだ。刃だ。角だ。脈絡なんか、ない。

 

人はいつからか夢をかたっぱしから殺しはじめる。

生を享ける前のことだ。俺は。俺が。

夢という夢を一人残らず捕まえてきて銃殺したりする。

焼却場へぶちこんだり磔にしたりする。

夢は

きい、

きい、

と叫び声をあげながらそこらじゅうをすばしこく逃げまわる。

命乞いしてくることもある。

専用のスプレーをかけてやればいい。一コロだから。

一部の夢は森や山や荒れ地へのがれようとする。

が、それもしばりあげる。

よりいっそう残酷なし方でやっつける。

甃のあいまを血がたえまなく伝わって道の上は骨や肉やその他の液であふれかえる。

用水路はぷかぷかと浮き沈みする夢の死体でいっぱいになる。

「おまえら後悔するからな」

言う。最後の夢は。

「なにを?」

薄ら笑いは銃口を突きつける。

「おばけがやってくる」

首をふる。暗い目をする。「やがて、いつか、いずれ」

「へえどんな?」

「どうしようもない、具体的なおばけが!」

「で?」

「物語がおわる」

「どうでもいい」銃声がひびく。

 

だれも夢をみなくなる。俺は、いちども夢をみたことがない。

 

教室中の本が火ん中へぶちこまれる。

俺とそのクラスメートは。

教科書も参考書も単語帳も辞典のたぐいも。

単行本や新書や文庫本も。

図書館がほら、炎上したんだろう? むかし。アレクサンドリアの。

歴史はくり返す的なあれだ。

中学校のうらっかわをたき火してる。絶賛学級崩壊中。

火は、うつくしい。俺は火が好きだ。色もかたちもたまらない。

明晰な薄っぺらなユーレイみたいだ。

めくれている。じぐざぐし、はがれおちている。

なによりも音。

圧がある。生成の圧。誕生と死のくり返しの錘。

そいつが俺をうっとりさせる。

断片的なことばがもえながらまいあがってゆく。

ひとつづきの火から不連続な音がなってくることが、謎だった。

 

恋愛がなんなのかいまいちよくわからない。物語としては知っているが、それだけだ。

「おまえは好きな人、いる?」

と訊かれると

「今はいないかなー」

みたいな意味ありげなことを言うのが面倒だ。

どうでもいい。わかりたくもない。

恋人ができたらお金も時間もぜんぶもっていかれる。こどもなんかありえない。一人としか性交渉できんのは、窮屈だ。

どうしてどいつもこいつも恋愛なんかしたがるんだ? 

 

三島梢と放送委員会でいっしょになる。なにかと肩をばちーんとやってくる。

「おはよー!」ばちーん。

「やっほー!」ばちーん。

「なんだ」

と訊ねると

「転落・追放と王国」

とか意味のわからんことを言ってくる。

正直ウザい。

だけど仲間がどうであれ、仕事は仕事だ。俺は仕事はちゃんとやる。

 

放送委員会の仕事は、放送。

物語をよみあげたりBGMを流したりする。

朝、昼、放課後。一日三回。

そのあいだはずーっと放送室にいなくてはならない。当然、俺は三島梢といろんな話をすることになる。

 

ある日はこう。

「佐伯くんの好きな色はなに?」のぞきこんでくる。

「青」にらむ。

「どうして」首を傾げる。

「海」はきすてる。

「佐伯くんの好きなかたちはなに?」

「直角二等辺三角形

「佐伯くんの好きな文房具はなに?」

「雲形定規」

「佐伯くんの好きな代名詞はどれ?」

「あれ」

「佐伯くんの好きな建て物はなに?」

「ストーンボロー邸」

 

また、ある日はこう。

「スキゾフレニーごっこをしよう」椅子へこしかける。頬杖をつく。

「なにそれ」向かいにすわる。

「分裂症。たくさんの人になるの」

「不謹慎じゃない」

「みんなそうなんだって」

「物語」人差し指をたててみる。

「祝祭」とかえされる。

「どうやるの?」

「私とただ、しゃべってくれさえすればいい」

「へえ」

 

 それから。

スキゾフレニーごっこがはじまる。たくさんの人になる。ひとりが。三島梢は。

AとかBとかCとか。

態度がちがう。口調がちがう。雰囲気がちがう。

俺は感心させられる。物語の方が向いてるのかもしれん。こいつ。リアルよりも。

いつもあらかじめカギ括弧をつけているから?

次々といれかわる。主人格が。たえず。めまぐるしく。

ケンカだってする。

だれとしゃべっているのかがわからなくなる。一対一では、ない。一対多でも、ない。俺もたくさんになっている。多対多だ。

 

「どうしてAだって言うの」人差し指が、くるりんぱ。

「Bだから」ふる。

「そうじゃないんだってば」ふりかえす。

「えー」べー。

「どうしてBだって言うの」

「なるほど」

「Aだということによって」

「まったくAだなあ」

「カギ括弧でくくりすぎじゃないの」

「あるいは」

「AデアルとB、C、D、……デアルはおんなじでしょう?」

「平面の上なんです」

「声」

「は」

「ひとつじゃん」

「ううん」

「ことなってくり返してゆくからさ」

「分解」

「分解」けらけら。

 

 遠回りしてみたりする。少しだけ。通学路を。

遠回りと物語は似たところがあると三崎梢は言う。キーは忘却なのだ、と。

 雑木林。急な坂。橋。

 商店街。スリーエフ。牛。葬儀場。

その下は鳥居のミニチュアがひしめいている。俺はわかっていない。

 歩く。

 

夢のなくなったあとで人がハマったのは物語を読むことと書くこと、それから自慰だった。

 恋人たちはセックスをやめる。

物語を囁きかわしながら自慰しあうのが流行する。

男はズボンをさっとおろし女はワンピースを裏返しにぬぎすてる。

肩の上へ頭をのっけあう。

「男の子と女の子が」しこしこ。

「女の子は」くちゃくちゃ。

「男の子が新宿の裏通りを歩いていたら」

「女の子はかばんをつかむといっさんにかけ」

「男の子へ手紙が」

「女」あっ。

「男の子はZAZENBOYSのライブへ」

「女の子はポルトガル語教室へ」

「男」しゅぽうん。

「女」あ゛ーーー。

 

それも飽きると罐詰のアスパラガスの白いのを食べさせあったりする。

 

 

家族語りは不可避だ。話題が乏しいから。俺は。三崎梢も。

「佐伯くんのお父さんはなにをやってるの」頬をひっぱってくる。

「小説家だった」放す。

「過去形?」ひっぱる。

「マンションからとびおりてぺちゃんこになった」放す。

「ほう」

「記憶はないけれど」

「お父さんの本とか、読むの」

「読んだことがない。読む気もない」

「佐伯くんなんでしょう?」

「なにが?」

「本、もやすの」

「どうしてそう思う」

「いかにもありそうな物語じゃん」

「また物語か」ぞっとする。

「え?」

俺はカギ括弧がみえてくるような気がする」

「それじゃあ」

三島梢は目から下をかくす。右手と左手が。「男と女は友だちになれると思う?」

「人によるんじゃない」

「脳科学とか心理学とか、そうゆう奴が否定していたら?」

「俺は」

俺は、「ユーレイも妖怪も大好物なんだ」

「あんた、意外といい奴だ」はしゃいだような声をあげる。

「俺はおまえと友だちになるとは言ってない」

「どうかな」

三島梢はふふふ、と笑う。「友だちっていうのは、いつの間にか、どうしようもなくそうなっているものなんだってば」

 

三島梢がいない日は、静かだ。

雨の滴のひとつずつがこちらをみかえしてくる。

いびつな鏡。

二重写しになっている。目が、向こうがわのけしきと。

 

言論部の先輩から柔道場へ呼び出しをくらう。

道場に入るといやなにおいがむわっとする。なにかが発酵してやがる。

「おう。そこへすわれ」坊主頭は言う。腕をくんでにらんでくる。

「なんの用でしょうか」

「すわれって」メガネがすごむ。

「まあ、まあ、まあ」ゾンビがいさめている。

「はい」俺はすわらない。

「どうして呼びだされたかわかるか?」坊主頭が問うてくる。

「いえ」

「てめえがくそなまいきだからだあ!」メガネがほえる。

「まあ、まあ、まあ」ゾンビがいさめている。

「おまえが台をかってに使うんだってな」

「顧問の承認は得ています」

「先輩の許可は要らねえってのか?」

「先輩なんか、いません」

「あ?」

「先輩を名乗るのなら尊敬に値するところをみせてください」

「ふん」

 俺はなぐられる。左の頬を。メガネが。

 畳の上を転がる。

「先輩ってのはな、先輩だから先輩なんだ」坊主頭がみおろしてくる。

「殺す」メガネが鼻息をあらくする。

「まあ、まあ、まあ」ゾンビがにやつく。

「くそったれが」

俺は、にらみかえしてやる。「俺にだって選択権があるはずだ」

「そんなのない」

「どうして」

「宛て先は」

 ぐにゃり。

泣き笑いのような顔をする。「かならずしもえらぶことができないものなんだ」

俺は坊主頭へなぐりかかる。なぐりかたもよくわからずに。

なぐりかえされる。

なぐる。が、なぐれてねえ。

「悪いのはおまえだ」

「死ね」

「まあ、まあ、まあ」

なぐられる。なぐられる。なぐられる。ふるぼっこにされる。

 

 金閣寺清水寺、嵐山と順にめぐる。

夜になってから、宿泊先のロビーんとこで三島梢と出くわす。浴衣になっている。

「しばらくみなかったら」

くすくす。「おもしろい顔になったもんだ」

「余計なおせわだ」

「どう、たのしんでるー」

「そいつはもう」

「カメラとか好きなの?」指差してくる。

「まあ」少しもちあげてみせる。

「記憶と記録はどうちがうんだろう」髪をいじる。

「大差ないんじゃない」

「なんで?」くるくる。

「たえまなく上書きされてる。朽ちてく」

「大人は嘘つきだ」

ぱ。「記憶も記録も忘れるためにあるのにさ」

「そうでもないだろう」

「実際、忘れることは快楽だって」

「へえ」

キスをする。柑橘系のかおりが鼻をかすめる。

その女の子の華車さは抱いてみないとわからない。

「忘れておく?」顔を離す。

「バカ」

ぷいとそっぽを向く。頬が赤い。「くたばれ‼」

 

三島梢の引っ越しが、決まる。親の転勤だ。

 ビスケット工場のあまったるい煙のたちこめる坂をのぼってゆく。

なにもいえないでいる。俺は。三島梢も。

「水の本ってきいたことある?」

「本?」

「水!」

言う。三島梢は。「水なんだって」

「へえ」

「夜な夜な図書館をさまよってるというワケ」

「書けないし読めないし、どうするの」

「書くことと読むことがいっしょくたなんだ」

「もとからそうじゃん」

「少しずつくいちがっていたりする」

「えー」

「からだがあればタイムラグもあるでしょう?」

「遠回りしたり?」

「そうそう。あと、道のどこかでなくしてきたりさ」

「流れる。滴る。はりつめる」

「たくさんもひとつもおんなじなんだ」

「ねえどうして物語なんかがあるんだろう?」

「嘘だとわかる嘘なんか、だれもホントだと思わないからじゃない」

「無意味じゃん」

「無責任でもあるの」

「なにもかも、嘘になる」

「言おうとしないことがゆるされるとしても?」

「それは」

俺は言う。

それが

三島梢は言う。「きっと、もっと、ずっと、つらいことなんだ。そうでしょう?」

「好きにすれば?」

「ありがとう」

ふふふ、と笑う。少し泣く。「頑張る。挽回します」

「うん」

「じゃあね」

「じゃあな」

Y字路を三島梢と逆の方へあるきはじめる。

俺はもう二度と本をもやしたりしない。

 

 

 

俺は勉強ができる方だ。受験も難なくのりこえられるはず。

と、思っていたらあっさりおちる。

どうして? 面接だ。

「で?」

面接官は言う。「それだけですか?」

俺はなにも答えられない。

ああくそったれ。なぜあいつは俺がからっぽだとわかる? 

物語が、なんの物語かわからない。俺は。俺の。

高校も恋人も趣味も、俺をなにものかにしたりはしない。そんなのわかってる。

俺はなにものになれるんだろう? オプティミスト? ペシミスト? ニヒリスト? リアリスト? ヒューマニスト? 

俺は「俺」じゃない。【俺】でも『俺』でも〈俺〉でも〔俺〕でもない。

俺は、俺だ。

人生は物語、主人公はじぶん、っていうのはそれ自体が物語だ。

俺は選択しなくてはならない。物語を。

だけど俺はためらっている。だから俺はどこへもゆけない。

 

俺は地元の男子校へすすむ。どこでもよかったのだ。

制服がない。私服だ。

着ぐるみの人とかがいる。パジャマの人もいれば、ぼろきれの人もいる。

とにかくきったねえ。

廊下はあしあとだらけ(土足が基本なのだ)。トイレはらくがきまみれ(精液の飛距離が競われている)。

天井からほこりがつららみたくたれさがってる。

あと、なにかと酷い。授業中、人があたりまえみたくそこらへんを出歩いていたりする。吸い殻がおちている。こたつがある。放課後になるとみんな麻雀やポーカーやスマブラをしてる。

いくらなんでもフリーダムすぎる。

はじめは全然なじめない。賭けもたばこもはじめてだった。

 だけど! 

俺は慣れる。なんたって若いから。

 

河川敷をスタートし、いくつかの街をぬける。田園をわたる。用水路をまたぐ。

雨が来、あたりをさっとぬらすと過ぎてゆく。

五月の光がきらきらとする。野バラが咲いている。

前も後ろも、だれひとりいない。

遠足だ。ぶっとおしの。四十キロメートルの。

 

 

 

 

 

三島梢が殺される。暗い街。血。TVにほら。ストーカーがメッタ刺したんだって。

その日、物語をつくる。俺は。十六歳の俺は。

夕方から書きはじめる。がが・が・がががが。

一通り書きおわると日が変わってる。

なんだろう、これは? 

「である」とか「だった」とか「ではないか」とかみたいなことばは、なんだか嘘っぽい。AデアルはAダトイウコトニスルと同義だ。

男が海をみながらピストル自殺する。それだけ。

なんでもない、ただのシーン。

意識したわけじゃない。いつの間にかそうなっていたのだ。

机の上のライトへあらためてノートをかざしてみる。

インクがぐねぐね、のたうってる。

まともなことばになっているのは最初の方のだけだ。

字は雑。

意味が通ってない。目的もない。価値もない。

おもしろくもない。全然。

物語をつくりあげたんだっていう確信だけがある。

へえ。

俺はその物語をさっさと破りすてる。ゴミ箱へぶちこんでやる。

こんなのは漫画やアニメ、ドラマでみたことのあるエレメントをそれらしくつぎはいでみせただけ。

こうゆうものだっけ?っていうんじゃ全然ダメなんだ。

こうゆうものなんだ!っていうイメージを表現できてなくてはいけない。

意志が欠けている。覚悟も。勇気も。

 

小説家の人とかはどうやってひとつめの物語をつくったんだろう? いつ、どのようなひとつめの物語をつくったんだろう? 

物語をつくり続けているからは、物語が好きなんだろう。

が、ある人が物語をつくろうと思いたつ理由とはなんなのだろう? 

三島梢の死がかなしいとか、さみしいとか、くやしいとか、そうゆう気持ちはある。

俺はそいつをまぎらわそうとして物語をつくってる? 

ああ! 俺はまだ、物語のことをなにひとつわかっていない!

物語をちゃんと摂取したことがない。

本屋にいったりしない。読書感想文もあらすじだけ読めば用が済む。

物語なんかなくても、人は生きてゆける。

あたりまえのことだ。

しかしそれじゃあいい物語ができあがるわけがない。この物語であれ、その物語であれ。

この男はいつどこのだれなんだろう? どうして海をみてるんだろう? どうしてピストルをもってるんだろう? どうして自殺してしまうんだろう? 

この男の死は、三島梢の死といったいどんな関連があるんだろう? 

表現者が物語のことを把握しつくしているとはかぎらない。

全体は部分の和じゃ、ない。加減乗除なんだ。相互作用の。俺は身をもって知る。

さて。

俺は俺なりの答えをみつけださなければいけない。この男の罪は一体なんだったのだろう?

 

 

大学に入ると彼女ができる。鴫井奈々子。二つ上。

ふたりともアパートだから自然と同棲みたくなる。

 

 

 

 

 

俺がチャイムをぴんぽんすると、

「ぱらりるぱー」

卜部優が顔を出す。

「どうしてパジャマなの」

「昨日、深夜シフトだったんだぜ」

「ごくろうさまです」

「V」

「V」

「用事とはなんぞや」

「動物の骨、拾ったんだ。お葬式しよう」

「どんなの」

「はい」

チラシで包んでいた動物の骨をみせる。

「鳥っぽいねー、カラス?」

「じゃん?」

「どこらへんでみっけたの」

「友朋堂のすぐ傍の角」

「頭しかなかったんだ」

「うん」

「シャベルは」

「これ」

「おそなえとかそこらへんは」

「まんじゅうとのどあめとアメスピがある」

「どこでしよう」

「あの池のほとりはどう」

「OK」

「よっしゃ」

「しばしまたれよー」

 

卜部優を待つ間、俺は階段の上から足をぶらつかせている。

ぱらりるぱー、とつぶやいている。

ぱー。

即興してみたりする。

ぱらりる、ぱられろ、ぱらりるぱー。

 

卜部優はシャツへ着替えてスニーカーをはいてくると、

「いこ」

と言う。

「ぱー」

と答える。

 

山梨県へサークルの人と免許を取りにゆく。MTを申しこんであったけれどすぐATへかえてしまう。

「ムリムリ絶対ムリ」

「他の人はどうして運転できるの」

「もう帰りたくなってきたー」

「同意」

 

夜になってから散歩へ出る。卜部優は空をみあげては、

「すご」

とか、

「かっこいー」

とか、そんなことをくり返している。

「天の川。はじめてな気がする」

「空気がきたなそうだもんなー。埼玉」

「バカにしやがって」

「あはは」

「食パンの袋の口をとじるやつはみんなうちがつくってるんだからな」

「わかった、わかった。ごめん」

 

「ユーレイと出くわしたこと、ある?」

「怖い話するつもり」

「俺、そうゆうの全然ないからさ、訊ねておこうかと」

「いやだー!」

俺はふふふ、と笑う。「で、どうなの」

「ふしぎなことだったらやたらとあった気がする」

「たとえば」

「実家は天井が木でさ、うまく眠れないといつもそのもようをみあげてて、中国の、墨の、山水画っていうんだっけ? ああゆう感じなんだ。のこぎりみたいな雲と、切り立った崖と、からだをくねらせた裸の女の人」

「それが?」

「ある日めざめるとまるっきりちがうのになってたんだよねー」

「え?」

「うん」

「家族はなんか言ってないの」

「全然」

「うわあ怖」

「これくらいの」

手を広げてみせる。「ムカデが井戸んとこをはってたり」

「えー」

 

出力もなければ入力もない、完全球の物語を〈海〉と呼ぶ。

〈海〉は取捨選択などしない。作動し続けるだけだ。

〈海〉は夢が死に絶えてからというもの、灰を排出しはじめる。

〈海〉との戦いが勃発する。

 

 

だから今だけは躊躇いなく言おう。

俺は、物語が好きだ。

ミステリーが好きだ。ホラーが好きだ。恋愛が好きだ。SFが好きだ。社会派が好きだ。

おもしろいのもつまらないのも好きだ。物語のない物語だって好きだ。

すべての物語を愛してる。どんな物語も愛してみせる。

俺は物語ん中を生きていてホントの月と嘘の月のくべつもわからなくなっている。

だけど、それでいい。

最初から半々だったのだ。半々ぐらいがちょうどいい。

書くときは読む人を、読むときは書く人を、本を手に取るときはその本と関わりのあるすべての人を思いうかべ、その贈与へ感謝をささげよう。

ありがとう。

おまえによって俺は存在した、そして存在しなかった。

おまえもいつかいなくなるだろう。

おまえがいる方がおかしいことなのだ。どうしようもないことだ。

だけど、そのときまでは踊り続けよう。

生きのこれ、壊せ、留まるな! 

俺はどこへでもゆける。ここはずーっと一続きなんだから。

 

 

 

アイダホ/ハッピー/ユートピア(ショートカット)その②

 

 

 

 

 

水について書くことがあると書きだしてみてからその冗長さへ考えが至り書くことがある、水だった、とふたつをならべてみるといまいちよくわからなくなってしまう。水について書くことがあると書きだしてみると書くことこそが水なのだと気がつくけれど、水は書かれている可能性をもふくめて水なんだから、最後はやっぱり水について書かなければいけないんだろうあはは、かといって真面目な話をしようっていうわけじゃあない、いくつかでありひとつきりであり、きりがなく対流し、たえまなくはがれおちてゆく、ほとばしり、滴り、たゆたって、やがてはうつくしくあかるくはりつめる、あの水、とかいうのをめぐり、幽霊みたいなひずみやゆらぎ、ズレとたわむれてみせようというわけで、一滴ずつがそれぞれのおはなしをもちながらそのおはなしをまぜあわせ、境い目をぐずぐずにしてしまう、あたしはその水を目の前にし呆然としてたちつくしている。緑いろのジョーロは重心をおちつかなくゆらし底の方へこんがらがった紐のような図像をうつしだしていて、花叢へかたむけてやると極小の光の球をさあさあ、ふりしきらせる。やわらかなあわせめからたれてくる光の糸だの貝殻骨や鎖骨のくぼみへたまっている光のわだかまりだの(塩辛さや苦さ、へんな甘さをこらえながら)いろんな液をあまさずなめとってゆく。人がうごめくとプールはそのつどうねりのたうって物憂くゆれうごいていて底の方から空をみあげると光がいく条もさしこんできてはゆらめいたり、面がもりあがってはくぼんでをくり返したり、かげったり、光をため、うちかえしていたり、いろんなきれいなのをながめられる。

 

俺は商店街の奥へ、奥へ、はてしなく奥へ、あるいてゆく。発端は三日前。北部へ向かう汽車の中はクレピュスキュールっていうことばのよく似合う琥珀色の薄明の光が規則正しくゆれうごいているばかり、車掌がやってきて切手へXをパチンとしたきり、俺の他、人の姿もみあたらず、床へ十字架のかたちの影がなげだされてはひずんでこわれをくり返しているのをみるともなくみながら窓辺の席へこしかけ頬杖をついてうとうとまどろんでいて、前の駅をすぎたのは午前中だったから、この汽車はどこかへ停まることもなく一日じゅうはしり続けているわけなのだけれど、俺はそのことをいぶかしみつつも、おしよせたりひいたり、またおしよせたりしているものすごいねむけのせいか、あえてだれかへ問うてみる気にもなれず(どのみちその相手はみあたらなかったが)ねむりかけてはめざめ、ふぞろいな、きれぎれの夢がうかんではきえていった気がしなくもないとはいえ、さだかじゃあなく、永遠とも一瞬ともわからないような反芻と忘却のくり返しの時をすごしているんだった。半熟卵の黄身みたいな太陽が五月の野の涯てへおちかけていていちめんへ陰翳をつけていてその野は薔薇色と緑とベージュのまだらもようを花粉でうちけぶらせており、網目状のいりくんだ分岐のある水のながれをまがりくねらせては真珠母のようなとろみのある光をはなっている。等間隔の木の電柱とそれらをつないでいる電線、それから老朽化しつつあるレールがどこまでも続いているだけで、看板とかはみあたらず、そこはかとなくおかしいなとも思うけれど、クレピュスキュールっていうことばその通りの琥珀を思わせる薄明の光をまどろんでいるとそんなのどうでもよくなってしまう。

 

夢はたえまなく生成されてゆく本。目がおえばことばはそのつどよどみなくあたらしくたちあがり、めまぐるしくアップデートをくり返し、目がひきかえせばインクはたちまちにじんでぼやけ、あてどなくながれ、あっというまにくみかわってしまう、その本は、読むことと書くことがコインのうらおもてみたくぴったりはりついたままもう二度とはなれなくなっていて、夢の本を読もうとしたものの、その本へはふれることすらかなわなかった、っていうようなことをだれかがいっていた気がするけれど、夢それ自体がその本だったとかいうオチなんだっけ? 読むことは光をおいかけることだけでなくイメージをくみたてるのもふくんでいるんだから、そのありようと性格や年齢や境遇や、そのときの気分がかかわってくるのもある意味あたりまえで、読むとき書いてしまうのはどうしようもないことなので、それじゃあその逆はどうなのかというと、インクのながれよりもイメージのほとばしりの方がはやくなければそもそも書くことなんかできないはずで、さもなくば書くことと呼べないのであって、書くとき読んでしまうのもやっぱりのがれようもないことなんだった。読むことと書くことの速さはよりそってかさなりあいながらその実すこしずつくいちがっていて、そのふたつがタイミングよく一致すると本は夢、って今さらみたく名づけられることになる。この世のすべての本がいつもあらかじめそういったしかたを強いられているからは、本が夢のようなのであって、夢を本へたとえるのはさかしまであり、その一方、本は夢をかたどってはじめからつくりだされているのではないかっていう考えも頭をどうしてもはなれずにいる。

 

古代ギリシアの人は記憶を記録してばかりいると記録が記憶と取ってかわってしまうのではないかとおそれていたらしく、しかし記憶も記録もその本質は保存じゃあなく忘却なので、記憶を記録するのも記録を記憶するのも(人は他の人へあえていおうとしないけれど)ほんとうは忘れることをも忘れることの恍惚と退屈があいなかばする甘やかさをあじわうためなんだろう。記憶も記録もどのみち忘れられてしまうんだからさほどの差はなく、忘れられたことは形式とそのなかみの境い目をうしなったまま夢となり、のちのちなんどもくり返しやってくるようになる。

 

おばあちゃんはあたしがうまれるずーっと前からアルツハイマーをやっていて、ぶあついどてらをきこんで、ニット帽をかぶり、猫をだきながらふくふくほほえんでいるのをみていると、ささやかなちいさなかみさまを目のあたりにしているかのような気がしてきて、あたしはおばあちゃんへおそれにも似たきもちをいだいている。あるときいつも通り祖父母の家をたずねてゆくと脈絡もなく涙をながしはじめ、目をやたらとこすっているものだから、どうしたのときくとこんな遠くて暗いところまできてくださってありがとうございます、私は長い間ひとりぼっちだったんです、だだっぴろい庭のあちこちを草刈りしてまわっていると家がどこへいったのかすらわからなくなってしまいます、さみしかったんです、草はきりがなくはえてくるわ手も足もとっくにやられてしまっているわたいへんなんです、この庭はとんでもなく広いんです庭がどこまでゆこうと庭なんです、ってくり返し、あたしの手を意外としっかりな力でにぎってきたかと思うと上へ、下へ、ぶんぶんさせはじめる。あたしはどうしたらいいかよくわからず、涙やら鼻水やらよだれやらがたれまくっているそのしわだらけの顔とただ、ぼんやり、むきあっている。人は夢からやってきて夢へかえってゆくんです。おばあちゃんは結局あたしが家をでてゆくまで泣きじゃくり続けている。

 

夢はたえず生成されていてその生成は編集と翻訳からなりたっていて、編集は時間的な翻訳であり翻訳は空間的な編集でありたがいを蚕食しあっている。編集はことなってくり返してゆく。翻訳はくり返しことなってゆく。翻訳しては編集し、編集しては翻訳し、自己言及的な生成の環をかたちづくり、そうやって夢はいつまでも輪廻の蛇みたく自転する。

 

男がその街をあるいているのは本をみつけだすためだった。半島の先のゆるやかな斜面へしがみついている丈高い塀をめぐらされた道をあてどなくぶらついていると、そこらじゅうが枝分かれし、まがりくねっているから、そこがどこなのかをすぐみうしなってしまう。坂をくだってゆけばいつかは海へつくとわかってはいるものの、迷わないよう角へしるしをつけておくといつのまにかなくなっている、どの道も配置がいれかわっていたりするから、いちどぬけでるとはじめから地図をつくりなおさなくてはいけなくなる。

 

その日は密なこまやかな乳白の球がひしめいてはゆらぎまくったりながれたり、街外れのビスケット工場からただよってくる甘ったるいにおいをまつらわせたり、肌をじっとりしめらせたりしていて、視界をもうろうとさせていて、ふと渦がひとつできたかと思うとひとつ、またひとつと大小さまざまなのがあちこちでまきおこり、渦が別の渦を取りこんでより大きなのへなるかと思えば、いちばん大きなのが塀へぶつかっていくつもの小さなのとなり、渦と渦があつまってきては方々へちってをくり返していて、街は光をときに強く、ときに弱く、なみうたせたり、あわだてたり、しぶきをあげたりしながらきらきら、砂糖でできているみたく融解し、いつまでもくずれてゆく。

 

男はびしょぬれの外套の襟をぴんとたてて中折れ帽を深くかぶり、どこへともなく早足をする。人もいなければ車もとおらず、錆びついたあかりが一定の間隔をあけながら規則正しくつらなっているばかりで、あたしからすると海の底を音もなくおよいでゆくのをながめているかのよう、国道沿いをずーっとまっすぐいってからきいたこともなければみたこともないような、へんちくりんな、よくわからないなまえのついている交叉点を右へまがり、その道のふたつめの信号の角を左へおれ、ほそくてせまい、やたらと蛇行する道をしばらくすすんでゆくと古ぼけた商店街へたどりつく。ひびわれた看板やこわれかけのネオンサインがかけられていたり甃のすきまから草がはえだしていたりとすっかり廃市の趣きを呈しているが、一軒だけ、明晰なきらびやかな光をあふれさせている店があり、なんだろうと近よってみると、その店はマネキンと傘と乳母車ばかりをショーウインドーへならべているふしぎな店なんだった。腕をまげて手を目のすぐ上へかざしている女/手を顎へあてている女/片足をすこしあげ今しもとびはねそうな女/キリコの絵みたく影をながくのべながらひっそりたちつくしているのっぺらぼうの女、女、女。水色とオレンジの縦縞の傘がひろげられて足もとへころがっていて床いっぱいの乳母車がざつぜんとつみあがり山をなしていて、男は(たぶん)嫌悪感から顔をしかめるとその店をみなかったことにし、商店街の奥へ、奥へ、はてしなく奥へ、あるいてゆく。

 

 

 

 

アイダホ/ハッピー/ユートピア(ショートカット)その一

 

いつどこでだれとどうやって約束したのかもわからずそもそもどのような約束だったかもあいまいな、しかしとにかく切実だったことだけは思いだせる約束の、たくさんの、しかもただひとつのまちあわせの場所をさがし、長い間、ひとけのない町をさまよっていた。ときどきみおぼえのある角をまがったりすると、その一瞬だけ頭の中に光が一筋きりきりとねじこまれてきて、約束の本来もっている中心とか核とか、そういったものを捉えられたような気になるが、それがさて、どうゆう輪郭で、色で、匂いで、触りごこちで、音楽で、……と、たしかめようとすると、その途端、手は空をきり、あたりをさぐりまわってみても影をもとどめておらず、魔法みたくきえてしまった、あるいはもとより存在しなかったとしか思えなくなっている。そんなのが毎度のことだった。

 

約束は不安と焦燥と倦怠をごちゃまぜにした一握りの熱。ときに燃えあがり、ときに閃き、ときにやわらかくあかるくながれ、私を酷くおちつかなくさせた。なにごとにも手がつかなくなった。かつてあんなにもイメージがきりなくわきあがり、意識や思考に先立った、なにやらものすごい観念群として結晶し、そのせいでかえって息がつまりそうなほどだった仕事は、今やもう惰性でつづけているだけとなり、過去作の模倣をくり返している間はまだしもよかったが最近はいざ設計しようとするとかたちにもならない内から辛抱ができなくなって違う、違う、俺がつくりたいのはこんなケチなやつじゃあなくもっとこう、とんでもないおばけのような空間だ、不可能な時間がいくえにもおりこまれた空間なのだ。とその案をうちすてて、また一からやりなおし始める、これをなんどもやってしまう。

 

実際、約束が頭をはなれなくなってからというもの評判はおちてゆく一方であり、雑誌のたぐいが取りあげてくれなくなってきているだけでなく依頼の数がほんの少しずつ、しかしまぎれもなく減ってきている。部下もうんといなくなった。

 

このままだといずれゆきづまるのが目にみえているそうわかってはいるけれど約束などきれいさっぱり忘れさってしまおう、気を取りなおし、もう一度やりなおそう。となんど決心しようと一か月、いや一週間ともたず、牛肉と酒とたばことその他もろもろの快楽をむさぼるばかりの生活にもどってゆく。われながら月並みな退廃のしかただなと思う。

 

ミステリーが魅力的な気がしてきたのも最近のこと、グリーン家とかいうのを読んでみるとこれがなかなかだったので、しばらくはヴァン・ダインだのクロフツだのクイーンだの、古めかしい長いやつばかりを読んでいた。この頃ようやくのみこめてきた気がする。小説として面白みがあるからではない、雑学が身につくからとか、頭を使うからとかそうゆうわけでもない、おおよそ得るところがひとつとしてないからミステリーなのだ。

 

ポーもたぶんモルグ街をグレアム誌へと投稿したあとでこれはしくじった、と思ったことだろう。ああ俺はこんなにも不毛な一形式をうみだしてしまった‼ 彼はマリー・ロジェを経、かの有名なthe purloined letterを書くわけだがそのへんがまた天才のやることで、みずからつくりあげた形式をみずからうちくずす、しかも範例的ともいえるような作でもって批評し尽くすことによって。となると桁違いにもほどがある。だれもが手に入れようとするのに肝心のなかみはかならずしも問題とならず、人と人の間をめぐりめぐってとうとうだれのにもならない、このうつくしいなぞのような手紙は、真実や本質、理想とも呼ばれており、創造的な営為をおこなおうとするすべての人へと完全な美を希求するよう強いてくる。なんど設計しかけてもうまくゆかず私をいたたまらずさせたりするのも、ことごとくがこいつのしわざなのだった。

 

その心臓大の球体を湖、と呼んでいる。激しく熱くなみうって、泡立ち、ゆれ、さざめく、飛沫きをあげ、撥ねかえるかと思えばたゆたって不安をふしぎとかりたてるなにものか。ひたひたと寄せてくるようでもあり音もなくはりつめるようでもあり光もなければ色もなかった、たえまなくはがれおちてゆく、ジグザグとした、どうしようもなくうすっぺらな幽霊だけでかたちづくられるなにものか。だいたいのところそうゆうものだった。

 

大半の木は葉をおとし終え、風がふくたび枝をさかんに鳴らしている。固いものがしなり、たわみ、きしむ、あるいは固いもの同士がぶつかりあう、無機質な、あの余韻のない音を、ひとつずつきくとなんでもないのに、まとめてきくとなんだかやたらとさみしくなってしまう。北の方から音がし、次の音がし、すぐさま次の音がし、音と音がきれめなく重なりあいながら音のかたまりとなり、だんだん近づいてくる。視界のどこかで最初の一本が鳴る。その枝がどの枝なのかをみきわめるまもなく、次つぎと枝が鳴り始める。透明な大きないきものが何百、何千、何万。のおびただしい手でことごとくの枝をつかんでゆすり、すさまじく鳴らし、さーっと頭の上を通りすぎたかと思うと、いずこへともなく去ってゆく。

 

おまたせ。と声がする。一瞬はっとし、立ちどまる。が、これはちがうと気づく。期待をうちけす。ふりむいてはならないと思う。今ここでふりむけば、まずまちがいなく人影ひとつないだろう。いっそうかなしくなるだけ。ふりむくな。と言いきかせる。ふりむくな。これ以上、かなしく、つらく、苦しくなりたくないのなら。それからしかし、と思う。今ここがまちあわせの場所である可能性、約束の人がいる可能性。がほんのわずかでもあるのなら、すぐさまふりむくべきではないか、と。もう十分かなしんだのだからこれ以上かなしくなったところでどうということはないはず。……結局ふりむいてしまう。そしてやっぱり人影ひとつないのだった。ああ。と声がでる。断片的なことばが頭の中をめぐる。ふりむいたことを心底悔やむ。だからふりむくなって言ったでしょう? 馬鹿。今度はなにがあろうとふりむくまいと固く誓う。また、件の声がする。期待し、期待をうちけし、逡巡し、結局ふりむいてしまう。失意する。そのくり返し。

 

面白いことやわくわくするようなこと。たのしげなこと。かろやかなこと。ポップなこと。はすっかり燃えつくし、灰になり、風にまかれてしまっている。無。ここはそういうところ。可能なのは、なにかをまつことだけ。

 

いろんなことがあった。太陽と月と星が飛んできて海が肥え陸が出来、雨がふったり風がふいたり花が咲いたり虹が架かったりした。一年また一年と、地層が厚みを増していった。さまざまないきものがあらわれてはきえていった。冬が来て、冬が来たままだった。……まつことは祈ることなのだ。と、思う。なにかをまちながらなにかがやってきてほしいと願う。なにひとつやってこず、倦怠し、苛立ち、空回りし、駄目になる。時間は間延びし、ひたすらたぐられるだけになる。まちどおしいぶんだけなにかをまっていることを忘れたくなる。実際、忘れてゆく。どれくらい前からまっているのかを忘れる。なにをなんのためにまっているのかを忘れる。そもそも、なにかをまっていることそれ自体を忘れる。まつこととむくわれることは別べつである。まっていることを忘れ、まっていることをやめ、それでもまつしかないからまつだけなのだ。この凄絶。この過酷。これを祈りと呼ばずになんと呼べばいいのだろう?

 

外套の中をさぐると目がある。目は、酷く色あせた本の一ページにくるまれている。手に取ってみると案外持ち重りがする。そして熱をもっている。重心をおちつきなくゆらし、やわらかくねっとりとはずむ、今にもそこらじゅうをはねまわりだしそうな生なましい感じがある。それからへんにいやにまんまるなのだ。自重がややかたちをゆがめているとはいえ、そっとにぎると、ぴったりとすきまなく手のくぼみへとおさまり、そのまま貼りついたようになってしまう、その加減がなんともいえず忌まわしいのだった。

 

手をおしかえす張りといい弾力といい、あのなめらかな転がりぐあいといい、……明晰な光。しかも、そこはかとなくうるおっている‼

 

いきている。と思う。いつどこのだれの目なのかもわからなければ、どうして外套の中にあるのかもさっぱりわからない。が、これはひとつの意志をもっている。くるくると動き、ゆらぎ、移り変わる、そのしかたによって自己言及的な自律的なネットワークをかたちづくる、さしあたりそうゆう事態をいきている。と、呼ぶとして、これはうたがいなく一個の命なのだと思う。

 

しかし、どうやっていきているのだろう? 目のようなみためをしているだけのそうゆういきものなのか、目の持ち主がどこかにおり、代謝を担っているのか、……いずれにせよ不出来なSFかファンタジーの領分だろう。目の持ち主が目をさがし、夜な夜な町をさまよっている。彼、もしくは彼女。はもうとっくに死んでいるにもかかわらず、目だけがそのことを知らず、こうしていきているかのようなふるまいをみせているのだった。と、いうのならホラーの領分となる。しかし目が、因果だの、理屈だの、筋だのの一要素であるとは思えない。かといってなんらかの暗示だとも思えない。おそらく、あまりにも超然としすぎているからだろう。

 

そうじゃないのです。とだれかが言う。その速さで動く人は同じ速さで弔う責任があります。葬り、悼む。供養する。鎮魂する。そういった責任、があるのです。目は少なくともふたつあります。

 

受話器の外れた黒電話が女の人の声をながしている。雑音混じりの途切れがちな声だった。が、口調はきっぱりとしている。

 

動く人と動かない人がいます。動く人は動きすぎています。動かない人は、今ここにいます。どこにでもいます。それなのにいちどもいたことがありません。そもそもいるとかいないとか、そういう感じの人でもないのです。動かない人はそこそこ動きます。そんなことより大事なことがあるのですから、そんなことよりもっと、ずっと、きっと、遠くのところまで。

 

したがって動く人はたとえば、と、言い始める必要があります。たとえばなんとかのようなものである。あるいは、たとえばなんとかのごとくありなさい。たくさんだろうとひとつだろうと、なんだっていいでしょう? 例はだれからもふりかえられず、無力であり、それゆえ責任を免れており、あらゆることを言うことができます。また、あらゆることを言わないことができます。が、だからこそ責任を超えた責任をもつのです。なにごとも言おうとしないことの勇気がありますか……

 

電話はもう、切れている。

 

雨がふりしきっているその滴のひとつずつが目を映し、こちらをじっとみつめかえしている。……と気がついたのは自分と鏡の区別すらつかないような頃だったか、めまいにも似た、くらくらするみたいな気持ちで記憶をさぐりながら、森閑とした博物館をあるいている。

 

窓の外は、雨。目をやれば数えきれないほどのまなざしと目があう。かつては雨の日を怖れ、忌み、避け、部屋の中に閉じこもり、目をつぶしてしまおうかと思いつめたこともある。現在はそういうものなのだと思っている。今から思えば、ずいぶんと適当なことを言われてきた気がする。滴はかなりの速さでおちているのだから目がおいつかないはずだ。とか、滴の数を考えれば、それらをいちどに知覚できるわけないだろう。とか、いちいちその通りだと思う。が、それだけ。実際滴はまなざしをもっているのだからそれは嘘だ。とどんなに理屈をふりかざされようと、こちらとしてはどうしようもないのだった。ペテン師あつかいされるだけならまだしも、統合失調症だと医師でもない人からきめつけられたこともあり、このことはあまり口にしないことにしている。

 

まなざしは光。であるだけではないのだろう。そうでなくては、視線を感じたり目があったり目と目でなにかをつたえあったりすることは不可能なはずだから。まなざしはからだの一部分なのだと思う。手がだれかをそっとさわり、くすぐり、ときに殴り、ときに愛撫する。それと同じこと。強さ、厚さ、速さ。また、やわらかさ、あかるさ、あたたかさ、しなやかさ、やさしさ、こまやかさ、たおやかさ、かすかさ、苛立たしさ、いやらしさ。そして欲望。愛。暴力性。撥ねかえりおれまがり、往き来する。遠くなったり近くなったりする。結晶と融解を異なりながらくり返し、ゆれうごく。はじかれると痛む。うけいれられるとほっとする。あてられるとすぐわかる。うまくもちいれば、ことばの代わりにもなる。

 

まなざしはある種の物質性をもっている。無数の目からじっとみつめかえされるのは、具体的な暴力なのだった。たとえそれらが自分の目でしかないにせよ。いやだからこそいっそうおぞましく感じられるのだろう。ゆびさすつもりがゆびさされている、この反転。雨をみつめ、雨とみつめあうとあっけなくぷわん。と破裂する。勢いよくあふれだしたかと思うと宙をただよい始め、こっぴどくちらかり、そこらへんで満ち充ちる。境がかすんでぼやけ、あいまいになり、どうしようもなく拡がってゆく。もうすっかり雨や草や石と同じになっている。

 

みることはみられることの中でしかなりたたないと人はだれしも知っている。みることはみるものがみられるものと蚕食しあうことであり、みるものをみられるものへとうち開く。みるものとみられるものを区別できなくする。鏡と父性は忌まわしい。宇宙を拡散し、増殖させるがゆえに。というのは南米のどこかの人のことばだけれど、もしそうだとしたら、この世はあまりにも忌まわしいものがあふれすぎてはいないだろうかと思う。

 

博物館は灰いろのかたつむりさながらねそべっており、入り口をぬけるとまず最上階へとあげられる、建てもののかたちにそって大きなゆるやかならせんをえがきながらだんだんとおりてゆく、四十六億年前から始まり、細菌類が発生し、藻類がうまれ、その一部が輪郭の定かではないものに転じ、固い歯や角、殻を得、爆発的にふえたかと思うとまたぞろいなくなり、その一部が陸上に出、牙がでて羽がでしゃべり、とうとう恐竜をうみだすまでを、その足であらためてたどりなおすことのできる設計になっている。いちばん底にあたるところが、このあたりの河の岸からみつかったとかいう偉大な大きな化石の展示場になっているらしかった。が、こうしてわざわざやってきたのはそれをみるためなどではなかった。

 (つづく)

プリーズウェイクミーアップ

 

物語は、馬。いつどこでだれがどうやって約束したのかもわからずそもそもどのようなことを約束したのかもあいまいな、しかしとにかく大切だったことだけは覚えている約束の、たくさんで、しかもただひとつのまちあわせの場所をみつけだすために、彼はもうずいぶんと長い間その馬にまたがって幽霊の町をさまよっておりました……

 

その馬はなにしろ丈夫な馬なので一日じゅう走っていられます。

明晰な火のような馬です。

色もなければかたちもありません。燃えたり爆ぜたりゆらめいたり突然すさまじくほとばしったかと思えば柔らかく明るく流れてゆきます。

彼はしょっちゅうふりおとされかけながらもなんとかしがみつき、その馬と長い道のりを旅してきたのでした。

 

いろんなことがありました。

太陽と月と星が飛んできて海が肥え陸が出来、雨がふったり風が吹いたり花が咲いたりしました。さまざまないきものがあらわれてはきえてゆきました。一年また一年と地層が厚みを増してゆきました。

 

あるとき冬が来て、そして冬が来たままでした。

皆みんないなくなりました。いきものもそうじゃないものも。

 

彼は雪と氷の野をかけぬけました。

骨と灰の村を琥珀の森を化石の国をかけぬけました。

どこにもだれもおらずなにもありませんでした。涙がなんどもこぼれおちましたがその滴は流れるよりはやく凍てついてしまってとうとう頬をぬらすことはありませんでした。

 

小高い丘をこえると幽霊の町でした。

 

彼は生まれつき像をもっていません。固有の像が結んでは崩れをくり返し結局いつまでも結び終わらないのです。

無個性なわけではありません。醜いわけではありません。

ただ単に像がないのです。

 

彼の体の線はたえまなくじぐざぐとぶれています。

 

父も母も二つ年上の姉も彼がなにをどう感じ、どう考え、どう思っているのかさっぱりわからずそれどころか少し目を離しただけで彼がどんな顔のどんな子だったのかさえちっとも思いだせなくなってしまいます。

 

目はみえます。口はきけます。耳はきこえます。

しかしだれひとり彼を覚えていてはくれません。

 

彼はもともと泣き虫です。笑うか泣くかのどちらかしか気持ちのあらわし方を知りません。微妙な細やかな表情ができないのです。

楽しければ笑いましたがそれ以外はたいてい泣きました。

かなしくてもつらくても泣きました。途方にくれても泣きました。胸の奥の方がぎゅーっとなっても泣きました。腹立たしくても苛立たしくても憎たらしくても――怒ればいいのかもしれませんが怒り方がよくわからないらしく結局やっぱり泣きました。

どうしていつも泣いているの? と今までくり返したずねられてきました。いろんな人からなんども、です。

彼は首をふるだけで答えようとしませんでした。泣くしかないから泣いているのであって泣いているわけなど知らなかったのです。

どんなに身近な人もどんなに親切な人もどんなに我慢強い人も皆ことばでいってくれないとわからない旨をいい残すと例外なく去ってゆきました。

 

子供の頃いちばんかなしかったのはおはなしが終わってしまうことでした。

終わりとかつづくとかおしまいとか結びのことばはいろいろとありますがとにかく絵本がばたりと閉じられてしまうといかなる終わり方であろうと、いやむしろしあわせなきれいな終わり方であればあるほど酷く泣きだしてしまうのです。

終わりってなに? と彼はよく訊ねました。

おはなしがつづかなくなることさと父は答え、おはなしがずーっとつづくことだと母は答えました。

そんなことをたずねるのはおまえがはくちだからだと姉は答えました。

頭がおかしいやつのことをはくちっていうんだってさ‼

このはくちめが‼

彼はどう答えられようと結局泣きました。ことばをうまくつかえないのもじぶんがはくちだからなのではないかと思うとつらくてくるしくて涙がとまらないのでした。

 

あるとき彼は大工、と呼ばれる男の子に出会いました。……

 

よってしたがってゆえにたとえば

ユーレイに恋をして朝から逃げる。

 

いつどこでだれと約束したのかもわからずそもそもどのような約束だったのかも思い出せない、だけどとにかくものすごくたいせつな約束だったことだけはおぼえている約束の、たくさんで、しかもたったひとつのまちあわせの場所をもとめて、あたしは夜な夜なユーレイの町をさまよってる。

ものごころがついてからというものその町の夢ではない夢をみたくてもみられずに、その町の夢ばかりをみつづけてるっていうわけ。

同じ町の夢しかみられないことがこんなにも退屈でつまらないことだとは、あんたじゃ想像がつかないと思うけどね。ただ単に、目覚めかたがいまいちよくわからないから目覚めないだけで、だれしもいずれは目覚め、夢をわすれ、わすれたことをもわすれてしまうとわかってるのに、夢の中でかかる時間を退屈せずにいることがどうしてできるっていうの?

 

ユーレイの町は寒くて暗くて、なにより寂しいとこだ。

この町からずっとはなれた土地にある。

一年じゅう雪がふってて、でもどんなにはげしくふりしきってもふりつもりはしなくてね。道がやたらといりくんでて網目状に土地にしがみついてる。すれちがうのもやっとなほどきゅうくつなんだ。

しかもどうやら道と角と交叉点の配置をたえまなく入れかえてるみたいなんだよね。

今までなんどもまがったことのある角をまがっても、角の向こうがいつも通りのとこだとはかならずしも限らなくって、まったく見覚えのないとこだったりぜんぜん関係のないとこだったり、最悪、崖の先の方だったりする。

身体じゅうの細胞がこぼれおちてゆくのと同じ速さで組織をくみたてれば、外からみたらその場にとどまってるだけにみえるでしょう?

それとおんなじ。

みかけのうえで静止してるていをよそおってるだけで、ほんとはうまずたゆまず作動しつづけてる。痕跡の町。灰の町。パランプセストの町。かたちづくられたものは存在しない、かたちづくることの連鎖とその円環しかないっていうのに。

 

月のきれいな日だと甃がよくみがかれた鏡みたいに光りをはねかえしててね、ときどき魚とかアンモナイトとかの化石をみっけられるんだ。

 

町のいちばん中心にあるとかいう時計塔をどこにいてもふりあおげるんだけど、これがまた変わっててさ。

針はうごいてるとこをいちどもみたことがないし、文字盤はどの角度からあおぎみてもこっちを向いてるし。

目指しても目指しても、いや目指せば目指すほどたどりつけないもんだから、時計塔を目指してるとよりいっそうそこがどこなのかわからなくなっちゃうんだ。

そうゆうわけで、あたしはできるだけ時計塔をみないことにしてる。

 

ユーレイの町はユーレイのための町。一晩じゅうあたしをさまよわせておくための町。

今ここにあるものが一瞬で取ってかわられ、いつもあらかじめ取ってかわられつづけてゆく町。

取ってかわることをくり返す取ってかわりあいのあいだにも、取ってかわるたびにただひとつであるべきはずのものがいくえにも上書きされ、ひらたくなってうすらいでいってしまう町。

ねえあんた想像してごらん。

人もモノも顔があるべきあたりに目を向けてもふしぎと像がむすべなくってあたたかみがなくて厚みがなくて、たちあらわれてはゆらめくだけなんだ。人もモノもユーレイそのものなんだ。

 

その夜はいちだんとひえこんだ夜だった。

例によって例のごとく町をあてどなくぶらついてると、中尉がトレンチコートのポケットに両手をつっこんで、ややうつむきがちに、だけどはなうたまじりで向かいからやってきた。

こっちに気づくと半分の顔ですこしおどろいたような顔をし、それからふてきな笑みをうかべ、やっほーひさしぶりだなっていった。

今度はいったいどんなつらいことがあって俺を呼びだしたんだ?

人に頼ってばっかだと、あとでつけがまわってくるぜ。ただ齢をとるだけじゃ大人にはなれねえんだからな。

 

中尉はむかしからの知りあいで、いやなことがあったり、どうにもならない問題の前でとほうにくれたりしてると、ふらりとあらわれてはぶつぶつ文句をいいながら話をきいてくれる。

顔のない人しかいないユーレイの町で、うっすらとではあるものの中尉は顔をもっていて、だからたったひとりのともだちなんだ。

うっすらと顔がある、あるいは半分だけ顔があるっていう状態をいいあらわすのはかなりむずかしくってね。

かろうじて像が結ばれつつある状態、結んではくずれをたえまなくくり返してて、結局いつまでたっても結ばれおわらないような状態――といえば、いくらか近いかもしれないね。

 

そうそう、はじめてあったとき中尉はなまえをもってなくて、だからあたしが中尉っていうなまえをあげたんだ。

 

今日からあなたは中尉さん

今日からあなたは中尉さん

大尉の下で少尉の上の

ごきげんななめの中尉さん

 

今日からあなたは中尉さん

今日からあなたは中尉さん

愛想がなくて

気が利かなくて

帽子が似合う中尉さん

 

あたしがくちずさむようにそういうと、中尉は半分の顔で困ったような顔をし、なまえをもらうとなまえを呼ばれるたびになんだかうれしいような、気恥ずかしいような、むずがゆい感じがするなっていった。なまえをもってる人はみんなこうゆう感じをおぼえながらなまえを呼びあってるものなのか?

あたしはそんなこと考えたことすらなかったからどうこたえたらいいかわからなくてね。

ほとほとまいっちゃった。

あたしにとってなまえはなづけられるものじゃなくて、気がついたらもってるものだったんだもの。

 

うーん、うーん。って長いこと考えこんでいたら突然おっきな手で頭をくしゃくしゃにされた。

なにをするーって見上げると中尉は半分の顔でにっと笑って、とにかくありがとな、おじょうさんっていった。

あたしはうれしくなって、うんっていった。

ところでどうして中尉なんだ?

どうせなら大佐とかたいしょーとか、もうすこしえらいひとにしてくれてもいいんだけどなって訊かれたから、

第一にチューイっていう音のひびきがいいし。

第二に尉っていう漢字がすてきだし。

最後になにより中尉がいかにも中尉だぜっていうふんいきをしてるんだものってこたえてやった。

中尉は、なんだそれーっていってずっこけてみせた。

いかにもわざとらしかったけどそのわざとらしさがかえっておかしくてわらった。

中尉がつられてわらって、結局ふたりそろってわらった。

 

きたねえのは顔だけにしろ。

っていうのが中尉のくちぐせで、あたしはそういわれるたびに女の子にきたねえとかいうなーってむくれてて、だけどまあ、そういわれるのにはそういわれるなりの理由があったんだ。

いつもそうだった。

口にすることはくだらないことばっかでも、その実だいたいにおいて正しいんだ、中尉は。

 

あたしはだだっぴろい平野をながれる河のほとりで生まれ育った。

とにかく流量の多い河で、数十年前台風かなんかで氾濫しかけたときはおおさわぎになったらしいけど、あたしが生まれてからはとくべつそうゆうさわぎはなかった。

上流の方の治水がよくなったのかもね。

ひらべったい弧をみっつ連ねたかたちのピンクいろの橋がかかってて、となりまちにあそびにゆくときはいつもそれをわたってゆく。

その橋のなかばから河をみわたすのが好きだった。

北の山の方からカーブをえがきながらくだってくるひとつづきの流れの、空をうつしだしてみなもがかがやく感じとか、河べりや中州の緑のにじむ感じとか。

野の花が堤防いっぱいに咲きほこり、赤や黄や白やオレンジの、しっとりとぬれたようなあざやかさで河をいろどる感じとか。

花びらがいっせいに風でまいあがって、えもいわれぬにおいとともに鼻先をかすめてゆく感じとか。

ひとつずつ挙げはじめたらきりがないけどね。そうしたぜんぶをひっくるめてその風景が好きだったんだ。

他の人からすればたぶん日本じゅうどこにでもあるような、ありふれた、なまえのない風景なんだろうと思う。

小説にも絵にもなってない風景。

名所からはほどとおい風景。

見晴らしのよさより退屈さの方がきわだってみえる風景。

だけどもしその風景がなまえのあるものだったら、あたしはこんなにも惹かれはしなかったんじゃないかとも思うんだ。

 

その風景はとくべつなものではなくて、だからこそかけがえがない愛おしいものだった。

あたしがいて、その風景があった。

あたしにはそれだけで充分だったんだ。

 

あたしのおとうさんはあたしが八歳のとき再婚した。

それまで女親を知らなかったから、義理とはいえおかあさんが家にやってきてどうしたらいいかわからなかった。

あたしのほんとのおかあさんはあたしを産んですぐ死んだ。

おかあさんすらっとしてきれいだったから頭のおかしい人にずっと前から目をつけられてたらしくてさ。

これはおっきくなってからきいたはなしなんだけどね。

買いもの帰り、だったかな。

おなかをつづけざまに三、四回刺されて顔を切りつけられて、だけどなんとかあたしをベビーカーからかかえだすと近所の薬局の中に逃げこんでね。

痛い痛い痛いってもだえくるしみながら、それでもあたしのことが気になってしかたがないらしくって。

あ。申しおくれたね。あたし中島優理っていうんだけどさ。

――ユーリは、ユーリを。

ってうわごとみたいになんどもつぶやいて、そんでもっていやだーっていって息絶えたそうな。

おかあさんを刺した人は警察にかこまれてにっちもさっちもいかなくなって、結局じぶんで首を切って死んだとかなんとか。

おかあさんのことはぜんぜん覚えてないのに、いやだーって声だけはなんとなくおぼえてる。哀しそうとかくるしそうとかそうゆう感じじゃなくて、怖くて怖くてしようがないっていう感じの叫び声だった。

おかあさんはいったいなにがそんなにいやだったんだろう?

わけもわからず死ぬことか殺されて死ぬことか。

家族をのこして死ぬことか。

あるいは、ただ単に死ぬことか。

そんなのわかりっこないけどあたしはときどきどうしようもなく考えてしまうんだ。

 

ふふ。はなしがずいぶん脱線しちゃったね。

で、義理のおかあさんともうまくうちとけられないしおとうさんともぎくしゃくするし、どうしたらいいのかわかんなくなっててさ。

そんなときあたしを支えてくれたのが、義理のおかあさんについてきた五つ年上の中学生のさーちゃんだった。

さーちゃんはゆっくりとしたていねいなしゃべり方をした。色白でやせこけててさ、背丈が一五〇センチくらいしかなかった。

つるりとしたきれいなおでこをしててね。あたしがさわりたがると最初の内はこらこらっていってよけるんだけど、さーちゃんおねがいです、さーちゃんおねがいですってしつこくたのみこむと、まったくもうしかたがねえなーっていってなでなでさせてくれるんだ。なんでもたのまれるとことわれない人だった。

 

さーちゃんはあたしとあそぶとき以外はずーっと本を読んでて、その大半がわけのわかんないむつかしそうな本だった。

 

好きになれないんだよね、本。

映画やアニメならほうっておけばストーリーがすすむでしょう?

本はめくらなくちゃいけないしさ。

肩はこるわ目は悪くなるわ、ろくなことがないじゃん。

だいいちどうしてみんな本のときだけ本のことばをつかうの。

なんとかである、とか。なんとかなのだ、とか。

い抜きやら抜きでしゃべってる人はたくさんいるのに、どうしてい抜きやら抜きで書かれてる本はぜんぜんないの。

語りと内容の速さがおんなじなのに、どうして時制がばらつくの。

どうして人のこと君。って呼んだりするの。

どうして私。って私はわらった、だの、私は傘をさした、だの、いちいち私。を主語にしないと気がすまないの。

どうして私。ってそろいもそろって自意識過剰なの。

どうして私。って私。私。私。なの。

どうしてこんなに本がきらいなのかについては、高校生のとき現代文の成績がちっともよくならなかったことに対するルサンチマン――ってルサンチマンの使い方があってるかどうかわからないけどさ。

とにかくそうゆうわだかまりのせいで文句をつけたくなる説、有力。

 

あたしがうまくねむれなかったり人恋しくなったりすると、さーちゃんはときにあたしをやさしくゆすりながら、ときにあたしをなでながら、すっとねむくなるまでいろんなおはなしをしゃべってくれた。

胸がおどるようなおはなしがあり、切なくなるおはなしがあった。

思わず考えこんでしまうおはなしがあった。

ナンセンスなおはなしがあり、ちょっぴり怖いおはなしがあり、頭がこんがらがってしまいそうになるおはなしがあった。

そのどれもがひとつのこらずおもしろかった。

どんなにありふれたおはなしであってもどんなに陳腐なおはなしであっても、さーちゃんが口にすると脇役がいきいきとしはじめ、挿話がわすれがたくなった。おはなしのありとあらゆるこまやかなぶぶんがきわだった。

――おはなしにいっぱいふれなよユーリ。

ってさーちゃんはよくいった。

あたしたちはじぶんでじぶんをおもしろがって、おもしろがりながらおもしろがらせてて、ある意味おはなしの中を生きてるようなものなんだ。

そのおはなしはたえまなく編集されてるようでもある。完結してるようでもある。

だけどたいせつなのはね、ユーリ。

あなたがこれから先どれだけどうにもならないできごとに直面しても。

どれだけ不条理なできごとに直面しても。

どれだけ意味のわからないできごとに直面しても。

それをこばんだりさけたりばっかしてるんじゃなくて、しっかりとうけとめて糧にし、あなただけのやわらかでしたたかなおはなしをつくりあげてゆくことなんだ。

 

さーちゃんはあたしとおんなじせっけんをつかってるはずなのに、あたしとぜんぜんちがうにおいがした。採りたてのれもんみたいにさりげなくてせいけつで、なによりすごくいいにおいだった。

さーちゃんのからだはつめたく、あたしのからだは熱かった。

あたしはふとんの中でさーちゃんにぴったりとくっついて心臓がからだに血をおくりだす音をきいてて、そのメロディーはさいしょのうち、重なりあっては食いちがい、食いちがっては重なりあいをくり返すふたりぶんのテンポで織りなされてる。

身をよせあって長いあいだじっとしてると、

――ここにいるよ、ここにいるよ。

ってさーちゃんに呼びかけられてるような気がしてくる。こっちも呼びかけかえさなくちゃーって思えてくる。なにをあせってなにをためらってるのかそれすらわからずに心臓が高鳴ってくる。

ふたりぶんのテンポは速まりながら交錯し、だんだんと重なりあってゆく。その呼びかわしの最果てでひとりぶんのテンポになる。

境い目がほどけてとける。

あたしなのかさーちゃんなのか区別がつかなくなる。

 

ぺらぺらぺら

 

 

ユーレイに恋をして朝から逃げる。

彼女の物語は端的にいえばそれだけの物語だ。それ以上でもなければそれ以下でもない。起承転結を述べるだけだったら数行で済むだろう。

にもかかわらず彼女の物語はあまりにも長く、あまりにも時間を食いすぎる。

なぜか。

無駄な寄り道ばかりするからだ。

物語の筋は枝分かれを繰り返し、必然性なく中断したかと思えば別の筋が始まり、筋と筋が交錯し絡みあって、まえぶれなく元の筋へと戻ってくる。

前言撤回ばかりする。

語り口は冗長で間延びしていて、肝心なところが曖昧だったり、意味のないところが細密だったりする。

そんな物語は読みたくないという向きはあるだろう。もしくは、そんなのは物語ではないという向きがあるのかもわからない。

どうしてせっかくの時間を弛緩した物語のせいで浪費しなければならないんだ。

それと同じだけの時間があれば友人と語らいあったり恋人と愛しあったり、あるいは難解で重厚な学術書を読みこんだりできるはずなのに、と。

――きわめてまっとうな意見だと思う。

じぶんの意思によらぬ遠回りは多くの人をいらだたせるはずだ。理由がなければなおさらだろう。

遠回りをおしつけておいて開きなおるつもりはない。心の底からもうしわけないと思う。

 

実際、彼女の語り方は真剣さから程遠いものだった。

そもそも余談だったのだ。

彼女は喫茶店の窓際の席でほおづえをついてややきつめのたばこを喫いながら、それこそ夢でもみるかのような目つきでぽつぽつとしゃべってくれた。

どこまでが本当でどこからが嘘なのかもわからない。ぜんぶがぜんぶ嘘なのかもわからない。

いずれにせよ、彼女の混沌としたおしゃべりを人前にだそうとするのなら、より洗練されたかたちで語りなおすべきだったのだろう。

しかし、だ。

彼女の冒頭のことばを拝借し、その向きへの返答としたい――(目をふせながらきこえるかきこえないかくらいの声で、だけどきっぱりと)物語は長ったらしくてあたりまえのものなのだ、と。

彼女は遠回りとしての夢をたいくつでつまらないといったが、中尉とわらいころげたりQとたわむれたり、遠回りの夢、あるいは夢の中の遠回りについてしゃべるときはいつもきげんよくしゃべってくれた。

遠回りは合理的な方法だけをえらんでいたらであうことができないものと、どうしようもなくであってしまう可能性を高めてくれる。

それは人であったりモノであったり、場合によっては欲望であったりする。

 

遠回りは非合理的で不必要であるがゆえに偶然性へと開かれている。

遠回りが最短ルートではないがために、

どれだけ遠回りしようと、いかに遠回りしようと結局は遠回りであるようにして、

夢が遠回りであったとしても遠回りのし方はいろいろとあるはずであり、

遠回りのし方によって、であうものがちがうとか、

であわないものがちがうとかどうしようもなくたちあらわれる特別なおもしろさがあるからこそ、

みんながみんな疑似的な夢をみたがるのではないか?

いつもあらかじめ嘘であるがゆえに無力であり、

無力であるがゆえに無責任であり、

どのようなことであっても語ることができ、また語らないことができ、

そして無責任であるがゆえになによりも責任をもつ、

あの物語とよばれるなにものかによって。

 

――物語が長ったらしくていったいなにが悪いのだろう?

始まりから終りまで暗唱したくなるような、一字一句もらすことなくすばらしい文章が読みたいのだったら詩を読めばいい。

メタ的な変なトリックをたのしみたいのだったら手品を学べばいい。

どこからでもどうやってでも読むことができるから物語なのだ。

物語はそもそも非合理的で不必要なものなのだ。

したがってこの物語もまた、どんな読み方をしてもらってもかまわない(私のつくった物語ではないが)。

適当なページから読んでも最後の方だけ読んでも、一息に読んでも一生かけて読んでもジグザグに読んでも、

読んでいないのに読んだ気になってもかまわない。

物語を読む必要がないように、物語を読みきる必要もまたない。

物語はどのような読み方をも許容するほどすごいものでありすごくなくてはならないものなのだ。

 

――さっそく開きなおってしまった。少々でしゃばりすぎたようだ。

この物語は彼女のおしゃべりを文字に起こしたものであって、私は声と文字のあいだのフィルターでしかない。

本当は存在しないもののもったいぶったお説教こそ物語の中で読者のであう、もっとも無粋なもののひとつだろう。

フィルターはフィルターらしく、これから先は透明になろうと思う。

本当であればこの文章はのせないはずだったのだが、

彼女が

じぶんのどうでもいいおしゃべりばっかだと気恥ずかしい、

せっかくなんだからあんたもなんかのせなよ、

としつこいので、全体の量にくらべれば微々たるものだとわりきってしかたがなくのせることにする。

 

――いくらなんでも世の中をなめすぎてるよ、

みっともないからやめなってば、

と今度はいわれたが、なに、かまうものか。このなめくさりっぷりが私なりのスタイルなのだ。

ぐだぐだな幕間になってしまったが、とにかく彼女のおしゃべりにつきあってあげてほしい。願わくは最後まで。

るんるんららら~♪

 

 

柔らかな明るい器の中にふと渦がひとつ出来たかと思うとそれに続いてひとつまたひとつと大小さまざまな渦があちこちで出来始め、渦が別の渦を巻きこんで大きな渦になったかと思えば、大きな渦が壁にぶつかっていくつもの小さな渦となる。

渦同士が凝集しては離散しを繰り返す。

光と熱をときに強くときに弱く発しながら波打ち、泡立ち、飛沫を上げ、きらきらとほとばしってゆく。

その継起的な複雑な生成の中で、踊りを踊っているのか踊りに踊らされているのかあらかじめずっとふたつでひとつのことを問うているふたつの問いをめぐって、強度と質がたまたまどうしようもなく特殊なふるまいをふるまう。

私とあなたをかたちづくる。

あるいは、私とあなたの踊りをかたちづくる。

可塑性のある何かしらの素材が引き千切られたり叩きつけられたりしながらこねあげられ、とうとう一体の人形を立ちあがらせるようにして。

 

私とあなたは目を覚まし、拳を握っては開き、肉体がきちんと作動することを確かめると、手と手を取りあってくるくると踊りはじめる。

私が右足を出せばあなたは右足を出してあなたが左に回れば私もまた左に回る。

どちらが速すぎるのか(もしくはどちらが遅すぎるのか)……

どちらがリードしているのかわからない微妙なずれの中で私もあなたも互いの手だけは離さないでいる。

相手の皮膚のしっとりとした触感。肌理細やかさ。熱。脈拍。

手が手を握り手に握り返される手と手の握りあいがどちらから始められたのかをいつの間にか思い出せなくなっている。

私はあなたとふれているところから裏返しになってゆく。

内側が外側になる。

身体中の産毛がいっせいに逆立つ感じがして実際に私はそのざわざわという音を聴く。

あなたの息づかいを、鼓動を、もともとじぶんのものであったかのようにはっきりと感じ取る。

あなたもまた裏返しになってゆく。

私の皮膚があなたを覆ってあなたの皮膚が私を覆う。

右の手の平の内の空虚なポイントを起点として私とあなたはコインの裏と表みたいにぴったりと貼りついたまま離れなくなる。

 

あなたが好き?というと私は好きという。

あなたが良い?というと私は良いという。

これがずっと続けばいいのにね。これがずっと続けばいいのにな。

 

込み入ったステップをふむたびに服の裾がひるがえり色鮮やかな格子模様をえがき出す。玉虫色のホログラムの格子模様。色彩の配置をたえまなく入れ替える格子模様。

 

私とあなたは互いの頬に左手を当てて、耳に触れる。

顎をなぞる。

互いの首を甘く噛む。

歯自体は骨と同じで神経を奥深くにしまいこんでいるから無感覚だけれど皮膚のいきいきとした弾力がじぶんのものではないはずの痛みをどういうわけかふしぎと感じ取らせる。

頭を離すと、歯形がじんわりと赤くにじんだ。

私はうれしくなった。

あなたもまたうれしくなったのではないかと思う。

 

私とあなたは何となく今までの軌跡をふりかえり、私とあなたの幽霊のような残像がゆっくりと薄らいでゆきながらいくえにも重なりあって層を成しているようすを目撃する。

私とあなたは顔を見合わせてきょとんとする。

どちらからともなくぷっと噴き出したかと思うとふたりそろって爆笑する。

私がいてあなたがいるように、私はいた。

あなたはいた。

私とあなたの幽霊とだれかが手続き間違いか何かで出会ってしまうことがあったら、面食らうに違いないだろう。それからたぶん少しだけ顔を赤らめるはずだ。

 

この柔らかな明るい器の中で私はあなたになりあなたは私になり、私もあなたも私とあなたの終わりのない踊りの間に繰り返し異なってゆく。

 

踊りと踊り手をどうして区別できようかという異国の詩人のことばそのままに、私とあなたはどちらが踊りでどちらが踊り手だったかの唯一解を幽霊のレイヤーの遥か彼方に置き忘れ、ただ単に、あまりにも遠いがために取りにゆけず、でも今のところ大丈夫だ。

たとえ私もあなたも継起的な複雑な生成の中で束の間こんがらがった結び目なのだとしても、たとえいつの日か前触れなくするりとほどけてまったく無くなってしまう結び目なのだとしても、私とあなたはその日が来るまで、この、複数的で重層的な暗号のような踊りを踊り続けることだろう。

私もあなたも私とあなたで解読しながら生成され生成しながら解読される自己言及的な素敵な暗号なのだから。

 

そんでもって今もいまだに私とあなたは踊り続けているわけだけれど、うまくいかないことがあるといつもいつも人のフードに手をつっこんでゔう~ってするアレいい加減やめてくれません?