アイダホ/ハッピー/ユートピア(ショートカット)その②

 

 

 

 

 

水について書くことがあると書きだしてみてからその冗長さへ考えが至り書くことがある、水だった、とふたつをならべてみるといまいちよくわからなくなってしまう。水について書くことがあると書きだしてみると書くことこそが水なのだと気がつくけれど、水は書かれている可能性をもふくめて水なんだから、最後はやっぱり水について書かなければいけないんだろうあはは、かといって真面目な話をしようっていうわけじゃあない、いくつかでありひとつきりであり、きりがなく対流し、たえまなくはがれおちてゆく、ほとばしり、滴り、たゆたって、やがてはうつくしくあかるくはりつめる、あの水、とかいうのをめぐり、幽霊みたいなひずみやゆらぎ、ズレとたわむれてみせようというわけで、一滴ずつがそれぞれのおはなしをもちながらそのおはなしをまぜあわせ、境い目をぐずぐずにしてしまう、あたしはその水を目の前にし呆然としてたちつくしている。緑いろのジョーロは重心をおちつかなくゆらし底の方へこんがらがった紐のような図像をうつしだしていて、花叢へかたむけてやると極小の光の球をさあさあ、ふりしきらせる。やわらかなあわせめからたれてくる光の糸だの貝殻骨や鎖骨のくぼみへたまっている光のわだかまりだの(塩辛さや苦さ、へんな甘さをこらえながら)いろんな液をあまさずなめとってゆく。人がうごめくとプールはそのつどうねりのたうって物憂くゆれうごいていて底の方から空をみあげると光がいく条もさしこんできてはゆらめいたり、面がもりあがってはくぼんでをくり返したり、かげったり、光をため、うちかえしていたり、いろんなきれいなのをながめられる。

 

俺は商店街の奥へ、奥へ、はてしなく奥へ、あるいてゆく。発端は三日前。北部へ向かう汽車の中はクレピュスキュールっていうことばのよく似合う琥珀色の薄明の光が規則正しくゆれうごいているばかり、車掌がやってきて切手へXをパチンとしたきり、俺の他、人の姿もみあたらず、床へ十字架のかたちの影がなげだされてはひずんでこわれをくり返しているのをみるともなくみながら窓辺の席へこしかけ頬杖をついてうとうとまどろんでいて、前の駅をすぎたのは午前中だったから、この汽車はどこかへ停まることもなく一日じゅうはしり続けているわけなのだけれど、俺はそのことをいぶかしみつつも、おしよせたりひいたり、またおしよせたりしているものすごいねむけのせいか、あえてだれかへ問うてみる気にもなれず(どのみちその相手はみあたらなかったが)ねむりかけてはめざめ、ふぞろいな、きれぎれの夢がうかんではきえていった気がしなくもないとはいえ、さだかじゃあなく、永遠とも一瞬ともわからないような反芻と忘却のくり返しの時をすごしているんだった。半熟卵の黄身みたいな太陽が五月の野の涯てへおちかけていていちめんへ陰翳をつけていてその野は薔薇色と緑とベージュのまだらもようを花粉でうちけぶらせており、網目状のいりくんだ分岐のある水のながれをまがりくねらせては真珠母のようなとろみのある光をはなっている。等間隔の木の電柱とそれらをつないでいる電線、それから老朽化しつつあるレールがどこまでも続いているだけで、看板とかはみあたらず、そこはかとなくおかしいなとも思うけれど、クレピュスキュールっていうことばその通りの琥珀を思わせる薄明の光をまどろんでいるとそんなのどうでもよくなってしまう。

 

夢はたえまなく生成されてゆく本。目がおえばことばはそのつどよどみなくあたらしくたちあがり、めまぐるしくアップデートをくり返し、目がひきかえせばインクはたちまちにじんでぼやけ、あてどなくながれ、あっというまにくみかわってしまう、その本は、読むことと書くことがコインのうらおもてみたくぴったりはりついたままもう二度とはなれなくなっていて、夢の本を読もうとしたものの、その本へはふれることすらかなわなかった、っていうようなことをだれかがいっていた気がするけれど、夢それ自体がその本だったとかいうオチなんだっけ? 読むことは光をおいかけることだけでなくイメージをくみたてるのもふくんでいるんだから、そのありようと性格や年齢や境遇や、そのときの気分がかかわってくるのもある意味あたりまえで、読むとき書いてしまうのはどうしようもないことなので、それじゃあその逆はどうなのかというと、インクのながれよりもイメージのほとばしりの方がはやくなければそもそも書くことなんかできないはずで、さもなくば書くことと呼べないのであって、書くとき読んでしまうのもやっぱりのがれようもないことなんだった。読むことと書くことの速さはよりそってかさなりあいながらその実すこしずつくいちがっていて、そのふたつがタイミングよく一致すると本は夢、って今さらみたく名づけられることになる。この世のすべての本がいつもあらかじめそういったしかたを強いられているからは、本が夢のようなのであって、夢を本へたとえるのはさかしまであり、その一方、本は夢をかたどってはじめからつくりだされているのではないかっていう考えも頭をどうしてもはなれずにいる。

 

古代ギリシアの人は記憶を記録してばかりいると記録が記憶と取ってかわってしまうのではないかとおそれていたらしく、しかし記憶も記録もその本質は保存じゃあなく忘却なので、記憶を記録するのも記録を記憶するのも(人は他の人へあえていおうとしないけれど)ほんとうは忘れることをも忘れることの恍惚と退屈があいなかばする甘やかさをあじわうためなんだろう。記憶も記録もどのみち忘れられてしまうんだからさほどの差はなく、忘れられたことは形式とそのなかみの境い目をうしなったまま夢となり、のちのちなんどもくり返しやってくるようになる。

 

おばあちゃんはあたしがうまれるずーっと前からアルツハイマーをやっていて、ぶあついどてらをきこんで、ニット帽をかぶり、猫をだきながらふくふくほほえんでいるのをみていると、ささやかなちいさなかみさまを目のあたりにしているかのような気がしてきて、あたしはおばあちゃんへおそれにも似たきもちをいだいている。あるときいつも通り祖父母の家をたずねてゆくと脈絡もなく涙をながしはじめ、目をやたらとこすっているものだから、どうしたのときくとこんな遠くて暗いところまできてくださってありがとうございます、私は長い間ひとりぼっちだったんです、だだっぴろい庭のあちこちを草刈りしてまわっていると家がどこへいったのかすらわからなくなってしまいます、さみしかったんです、草はきりがなくはえてくるわ手も足もとっくにやられてしまっているわたいへんなんです、この庭はとんでもなく広いんです庭がどこまでゆこうと庭なんです、ってくり返し、あたしの手を意外としっかりな力でにぎってきたかと思うと上へ、下へ、ぶんぶんさせはじめる。あたしはどうしたらいいかよくわからず、涙やら鼻水やらよだれやらがたれまくっているそのしわだらけの顔とただ、ぼんやり、むきあっている。人は夢からやってきて夢へかえってゆくんです。おばあちゃんは結局あたしが家をでてゆくまで泣きじゃくり続けている。

 

夢はたえず生成されていてその生成は編集と翻訳からなりたっていて、編集は時間的な翻訳であり翻訳は空間的な編集でありたがいを蚕食しあっている。編集はことなってくり返してゆく。翻訳はくり返しことなってゆく。翻訳しては編集し、編集しては翻訳し、自己言及的な生成の環をかたちづくり、そうやって夢はいつまでも輪廻の蛇みたく自転する。

 

男がその街をあるいているのは本をみつけだすためだった。半島の先のゆるやかな斜面へしがみついている丈高い塀をめぐらされた道をあてどなくぶらついていると、そこらじゅうが枝分かれし、まがりくねっているから、そこがどこなのかをすぐみうしなってしまう。坂をくだってゆけばいつかは海へつくとわかってはいるものの、迷わないよう角へしるしをつけておくといつのまにかなくなっている、どの道も配置がいれかわっていたりするから、いちどぬけでるとはじめから地図をつくりなおさなくてはいけなくなる。

 

その日は密なこまやかな乳白の球がひしめいてはゆらぎまくったりながれたり、街外れのビスケット工場からただよってくる甘ったるいにおいをまつらわせたり、肌をじっとりしめらせたりしていて、視界をもうろうとさせていて、ふと渦がひとつできたかと思うとひとつ、またひとつと大小さまざまなのがあちこちでまきおこり、渦が別の渦を取りこんでより大きなのへなるかと思えば、いちばん大きなのが塀へぶつかっていくつもの小さなのとなり、渦と渦があつまってきては方々へちってをくり返していて、街は光をときに強く、ときに弱く、なみうたせたり、あわだてたり、しぶきをあげたりしながらきらきら、砂糖でできているみたく融解し、いつまでもくずれてゆく。

 

男はびしょぬれの外套の襟をぴんとたてて中折れ帽を深くかぶり、どこへともなく早足をする。人もいなければ車もとおらず、錆びついたあかりが一定の間隔をあけながら規則正しくつらなっているばかりで、あたしからすると海の底を音もなくおよいでゆくのをながめているかのよう、国道沿いをずーっとまっすぐいってからきいたこともなければみたこともないような、へんちくりんな、よくわからないなまえのついている交叉点を右へまがり、その道のふたつめの信号の角を左へおれ、ほそくてせまい、やたらと蛇行する道をしばらくすすんでゆくと古ぼけた商店街へたどりつく。ひびわれた看板やこわれかけのネオンサインがかけられていたり甃のすきまから草がはえだしていたりとすっかり廃市の趣きを呈しているが、一軒だけ、明晰なきらびやかな光をあふれさせている店があり、なんだろうと近よってみると、その店はマネキンと傘と乳母車ばかりをショーウインドーへならべているふしぎな店なんだった。腕をまげて手を目のすぐ上へかざしている女/手を顎へあてている女/片足をすこしあげ今しもとびはねそうな女/キリコの絵みたく影をながくのべながらひっそりたちつくしているのっぺらぼうの女、女、女。水色とオレンジの縦縞の傘がひろげられて足もとへころがっていて床いっぱいの乳母車がざつぜんとつみあがり山をなしていて、男は(たぶん)嫌悪感から顔をしかめるとその店をみなかったことにし、商店街の奥へ、奥へ、はてしなく奥へ、あるいてゆく。