プリーズウェイクミーアップ
物語は、馬。いつどこでだれがどうやって約束したのかもわからずそもそもどのようなことを約束したのかもあいまいな、しかしとにかく大切だったことだけは覚えている約束の、たくさんで、しかもただひとつのまちあわせの場所をみつけだすために、彼はもうずいぶんと長い間その馬にまたがって幽霊の町をさまよっておりました……
その馬はなにしろ丈夫な馬なので一日じゅう走っていられます。
明晰な火のような馬です。
色もなければかたちもありません。燃えたり爆ぜたりゆらめいたり突然すさまじくほとばしったかと思えば柔らかく明るく流れてゆきます。
彼はしょっちゅうふりおとされかけながらもなんとかしがみつき、その馬と長い道のりを旅してきたのでした。
いろんなことがありました。
太陽と月と星が飛んできて海が肥え陸が出来、雨がふったり風が吹いたり花が咲いたりしました。さまざまないきものがあらわれてはきえてゆきました。一年また一年と地層が厚みを増してゆきました。
あるとき冬が来て、そして冬が来たままでした。
皆みんないなくなりました。いきものもそうじゃないものも。
彼は雪と氷の野をかけぬけました。
骨と灰の村を琥珀の森を化石の国をかけぬけました。
どこにもだれもおらずなにもありませんでした。涙がなんどもこぼれおちましたがその滴は流れるよりはやく凍てついてしまってとうとう頬をぬらすことはありませんでした。
小高い丘をこえると幽霊の町でした。
彼は生まれつき像をもっていません。固有の像が結んでは崩れをくり返し結局いつまでも結び終わらないのです。
無個性なわけではありません。醜いわけではありません。
ただ単に像がないのです。
彼の体の線はたえまなくじぐざぐとぶれています。
父も母も二つ年上の姉も彼がなにをどう感じ、どう考え、どう思っているのかさっぱりわからずそれどころか少し目を離しただけで彼がどんな顔のどんな子だったのかさえちっとも思いだせなくなってしまいます。
目はみえます。口はきけます。耳はきこえます。
しかしだれひとり彼を覚えていてはくれません。
彼はもともと泣き虫です。笑うか泣くかのどちらかしか気持ちのあらわし方を知りません。微妙な細やかな表情ができないのです。
楽しければ笑いましたがそれ以外はたいてい泣きました。
かなしくてもつらくても泣きました。途方にくれても泣きました。胸の奥の方がぎゅーっとなっても泣きました。腹立たしくても苛立たしくても憎たらしくても――怒ればいいのかもしれませんが怒り方がよくわからないらしく結局やっぱり泣きました。
どうしていつも泣いているの? と今までくり返したずねられてきました。いろんな人からなんども、です。
彼は首をふるだけで答えようとしませんでした。泣くしかないから泣いているのであって泣いているわけなど知らなかったのです。
どんなに身近な人もどんなに親切な人もどんなに我慢強い人も皆ことばでいってくれないとわからない旨をいい残すと例外なく去ってゆきました。
子供の頃いちばんかなしかったのはおはなしが終わってしまうことでした。
終わりとかつづくとかおしまいとか結びのことばはいろいろとありますがとにかく絵本がばたりと閉じられてしまうといかなる終わり方であろうと、いやむしろしあわせなきれいな終わり方であればあるほど酷く泣きだしてしまうのです。
終わりってなに? と彼はよく訊ねました。
おはなしがつづかなくなることさと父は答え、おはなしがずーっとつづくことだと母は答えました。
そんなことをたずねるのはおまえがはくちだからだと姉は答えました。
頭がおかしいやつのことをはくちっていうんだってさ‼
このはくちめが‼
彼はどう答えられようと結局泣きました。ことばをうまくつかえないのもじぶんがはくちだからなのではないかと思うとつらくてくるしくて涙がとまらないのでした。
あるとき彼は大工、と呼ばれる男の子に出会いました。……