アイダホ/ハッピー/ユートピア(ショートカット)その一

 

いつどこでだれとどうやって約束したのかもわからずそもそもどのような約束だったかもあいまいな、しかしとにかく切実だったことだけは思いだせる約束の、たくさんの、しかもただひとつのまちあわせの場所をさがし、長い間、ひとけのない町をさまよっていた。ときどきみおぼえのある角をまがったりすると、その一瞬だけ頭の中に光が一筋きりきりとねじこまれてきて、約束の本来もっている中心とか核とか、そういったものを捉えられたような気になるが、それがさて、どうゆう輪郭で、色で、匂いで、触りごこちで、音楽で、……と、たしかめようとすると、その途端、手は空をきり、あたりをさぐりまわってみても影をもとどめておらず、魔法みたくきえてしまった、あるいはもとより存在しなかったとしか思えなくなっている。そんなのが毎度のことだった。

 

約束は不安と焦燥と倦怠をごちゃまぜにした一握りの熱。ときに燃えあがり、ときに閃き、ときにやわらかくあかるくながれ、私を酷くおちつかなくさせた。なにごとにも手がつかなくなった。かつてあんなにもイメージがきりなくわきあがり、意識や思考に先立った、なにやらものすごい観念群として結晶し、そのせいでかえって息がつまりそうなほどだった仕事は、今やもう惰性でつづけているだけとなり、過去作の模倣をくり返している間はまだしもよかったが最近はいざ設計しようとするとかたちにもならない内から辛抱ができなくなって違う、違う、俺がつくりたいのはこんなケチなやつじゃあなくもっとこう、とんでもないおばけのような空間だ、不可能な時間がいくえにもおりこまれた空間なのだ。とその案をうちすてて、また一からやりなおし始める、これをなんどもやってしまう。

 

実際、約束が頭をはなれなくなってからというもの評判はおちてゆく一方であり、雑誌のたぐいが取りあげてくれなくなってきているだけでなく依頼の数がほんの少しずつ、しかしまぎれもなく減ってきている。部下もうんといなくなった。

 

このままだといずれゆきづまるのが目にみえているそうわかってはいるけれど約束などきれいさっぱり忘れさってしまおう、気を取りなおし、もう一度やりなおそう。となんど決心しようと一か月、いや一週間ともたず、牛肉と酒とたばことその他もろもろの快楽をむさぼるばかりの生活にもどってゆく。われながら月並みな退廃のしかただなと思う。

 

ミステリーが魅力的な気がしてきたのも最近のこと、グリーン家とかいうのを読んでみるとこれがなかなかだったので、しばらくはヴァン・ダインだのクロフツだのクイーンだの、古めかしい長いやつばかりを読んでいた。この頃ようやくのみこめてきた気がする。小説として面白みがあるからではない、雑学が身につくからとか、頭を使うからとかそうゆうわけでもない、おおよそ得るところがひとつとしてないからミステリーなのだ。

 

ポーもたぶんモルグ街をグレアム誌へと投稿したあとでこれはしくじった、と思ったことだろう。ああ俺はこんなにも不毛な一形式をうみだしてしまった‼ 彼はマリー・ロジェを経、かの有名なthe purloined letterを書くわけだがそのへんがまた天才のやることで、みずからつくりあげた形式をみずからうちくずす、しかも範例的ともいえるような作でもって批評し尽くすことによって。となると桁違いにもほどがある。だれもが手に入れようとするのに肝心のなかみはかならずしも問題とならず、人と人の間をめぐりめぐってとうとうだれのにもならない、このうつくしいなぞのような手紙は、真実や本質、理想とも呼ばれており、創造的な営為をおこなおうとするすべての人へと完全な美を希求するよう強いてくる。なんど設計しかけてもうまくゆかず私をいたたまらずさせたりするのも、ことごとくがこいつのしわざなのだった。

 

その心臓大の球体を湖、と呼んでいる。激しく熱くなみうって、泡立ち、ゆれ、さざめく、飛沫きをあげ、撥ねかえるかと思えばたゆたって不安をふしぎとかりたてるなにものか。ひたひたと寄せてくるようでもあり音もなくはりつめるようでもあり光もなければ色もなかった、たえまなくはがれおちてゆく、ジグザグとした、どうしようもなくうすっぺらな幽霊だけでかたちづくられるなにものか。だいたいのところそうゆうものだった。

 

大半の木は葉をおとし終え、風がふくたび枝をさかんに鳴らしている。固いものがしなり、たわみ、きしむ、あるいは固いもの同士がぶつかりあう、無機質な、あの余韻のない音を、ひとつずつきくとなんでもないのに、まとめてきくとなんだかやたらとさみしくなってしまう。北の方から音がし、次の音がし、すぐさま次の音がし、音と音がきれめなく重なりあいながら音のかたまりとなり、だんだん近づいてくる。視界のどこかで最初の一本が鳴る。その枝がどの枝なのかをみきわめるまもなく、次つぎと枝が鳴り始める。透明な大きないきものが何百、何千、何万。のおびただしい手でことごとくの枝をつかんでゆすり、すさまじく鳴らし、さーっと頭の上を通りすぎたかと思うと、いずこへともなく去ってゆく。

 

おまたせ。と声がする。一瞬はっとし、立ちどまる。が、これはちがうと気づく。期待をうちけす。ふりむいてはならないと思う。今ここでふりむけば、まずまちがいなく人影ひとつないだろう。いっそうかなしくなるだけ。ふりむくな。と言いきかせる。ふりむくな。これ以上、かなしく、つらく、苦しくなりたくないのなら。それからしかし、と思う。今ここがまちあわせの場所である可能性、約束の人がいる可能性。がほんのわずかでもあるのなら、すぐさまふりむくべきではないか、と。もう十分かなしんだのだからこれ以上かなしくなったところでどうということはないはず。……結局ふりむいてしまう。そしてやっぱり人影ひとつないのだった。ああ。と声がでる。断片的なことばが頭の中をめぐる。ふりむいたことを心底悔やむ。だからふりむくなって言ったでしょう? 馬鹿。今度はなにがあろうとふりむくまいと固く誓う。また、件の声がする。期待し、期待をうちけし、逡巡し、結局ふりむいてしまう。失意する。そのくり返し。

 

面白いことやわくわくするようなこと。たのしげなこと。かろやかなこと。ポップなこと。はすっかり燃えつくし、灰になり、風にまかれてしまっている。無。ここはそういうところ。可能なのは、なにかをまつことだけ。

 

いろんなことがあった。太陽と月と星が飛んできて海が肥え陸が出来、雨がふったり風がふいたり花が咲いたり虹が架かったりした。一年また一年と、地層が厚みを増していった。さまざまないきものがあらわれてはきえていった。冬が来て、冬が来たままだった。……まつことは祈ることなのだ。と、思う。なにかをまちながらなにかがやってきてほしいと願う。なにひとつやってこず、倦怠し、苛立ち、空回りし、駄目になる。時間は間延びし、ひたすらたぐられるだけになる。まちどおしいぶんだけなにかをまっていることを忘れたくなる。実際、忘れてゆく。どれくらい前からまっているのかを忘れる。なにをなんのためにまっているのかを忘れる。そもそも、なにかをまっていることそれ自体を忘れる。まつこととむくわれることは別べつである。まっていることを忘れ、まっていることをやめ、それでもまつしかないからまつだけなのだ。この凄絶。この過酷。これを祈りと呼ばずになんと呼べばいいのだろう?

 

外套の中をさぐると目がある。目は、酷く色あせた本の一ページにくるまれている。手に取ってみると案外持ち重りがする。そして熱をもっている。重心をおちつきなくゆらし、やわらかくねっとりとはずむ、今にもそこらじゅうをはねまわりだしそうな生なましい感じがある。それからへんにいやにまんまるなのだ。自重がややかたちをゆがめているとはいえ、そっとにぎると、ぴったりとすきまなく手のくぼみへとおさまり、そのまま貼りついたようになってしまう、その加減がなんともいえず忌まわしいのだった。

 

手をおしかえす張りといい弾力といい、あのなめらかな転がりぐあいといい、……明晰な光。しかも、そこはかとなくうるおっている‼

 

いきている。と思う。いつどこのだれの目なのかもわからなければ、どうして外套の中にあるのかもさっぱりわからない。が、これはひとつの意志をもっている。くるくると動き、ゆらぎ、移り変わる、そのしかたによって自己言及的な自律的なネットワークをかたちづくる、さしあたりそうゆう事態をいきている。と、呼ぶとして、これはうたがいなく一個の命なのだと思う。

 

しかし、どうやっていきているのだろう? 目のようなみためをしているだけのそうゆういきものなのか、目の持ち主がどこかにおり、代謝を担っているのか、……いずれにせよ不出来なSFかファンタジーの領分だろう。目の持ち主が目をさがし、夜な夜な町をさまよっている。彼、もしくは彼女。はもうとっくに死んでいるにもかかわらず、目だけがそのことを知らず、こうしていきているかのようなふるまいをみせているのだった。と、いうのならホラーの領分となる。しかし目が、因果だの、理屈だの、筋だのの一要素であるとは思えない。かといってなんらかの暗示だとも思えない。おそらく、あまりにも超然としすぎているからだろう。

 

そうじゃないのです。とだれかが言う。その速さで動く人は同じ速さで弔う責任があります。葬り、悼む。供養する。鎮魂する。そういった責任、があるのです。目は少なくともふたつあります。

 

受話器の外れた黒電話が女の人の声をながしている。雑音混じりの途切れがちな声だった。が、口調はきっぱりとしている。

 

動く人と動かない人がいます。動く人は動きすぎています。動かない人は、今ここにいます。どこにでもいます。それなのにいちどもいたことがありません。そもそもいるとかいないとか、そういう感じの人でもないのです。動かない人はそこそこ動きます。そんなことより大事なことがあるのですから、そんなことよりもっと、ずっと、きっと、遠くのところまで。

 

したがって動く人はたとえば、と、言い始める必要があります。たとえばなんとかのようなものである。あるいは、たとえばなんとかのごとくありなさい。たくさんだろうとひとつだろうと、なんだっていいでしょう? 例はだれからもふりかえられず、無力であり、それゆえ責任を免れており、あらゆることを言うことができます。また、あらゆることを言わないことができます。が、だからこそ責任を超えた責任をもつのです。なにごとも言おうとしないことの勇気がありますか……

 

電話はもう、切れている。

 

雨がふりしきっているその滴のひとつずつが目を映し、こちらをじっとみつめかえしている。……と気がついたのは自分と鏡の区別すらつかないような頃だったか、めまいにも似た、くらくらするみたいな気持ちで記憶をさぐりながら、森閑とした博物館をあるいている。

 

窓の外は、雨。目をやれば数えきれないほどのまなざしと目があう。かつては雨の日を怖れ、忌み、避け、部屋の中に閉じこもり、目をつぶしてしまおうかと思いつめたこともある。現在はそういうものなのだと思っている。今から思えば、ずいぶんと適当なことを言われてきた気がする。滴はかなりの速さでおちているのだから目がおいつかないはずだ。とか、滴の数を考えれば、それらをいちどに知覚できるわけないだろう。とか、いちいちその通りだと思う。が、それだけ。実際滴はまなざしをもっているのだからそれは嘘だ。とどんなに理屈をふりかざされようと、こちらとしてはどうしようもないのだった。ペテン師あつかいされるだけならまだしも、統合失調症だと医師でもない人からきめつけられたこともあり、このことはあまり口にしないことにしている。

 

まなざしは光。であるだけではないのだろう。そうでなくては、視線を感じたり目があったり目と目でなにかをつたえあったりすることは不可能なはずだから。まなざしはからだの一部分なのだと思う。手がだれかをそっとさわり、くすぐり、ときに殴り、ときに愛撫する。それと同じこと。強さ、厚さ、速さ。また、やわらかさ、あかるさ、あたたかさ、しなやかさ、やさしさ、こまやかさ、たおやかさ、かすかさ、苛立たしさ、いやらしさ。そして欲望。愛。暴力性。撥ねかえりおれまがり、往き来する。遠くなったり近くなったりする。結晶と融解を異なりながらくり返し、ゆれうごく。はじかれると痛む。うけいれられるとほっとする。あてられるとすぐわかる。うまくもちいれば、ことばの代わりにもなる。

 

まなざしはある種の物質性をもっている。無数の目からじっとみつめかえされるのは、具体的な暴力なのだった。たとえそれらが自分の目でしかないにせよ。いやだからこそいっそうおぞましく感じられるのだろう。ゆびさすつもりがゆびさされている、この反転。雨をみつめ、雨とみつめあうとあっけなくぷわん。と破裂する。勢いよくあふれだしたかと思うと宙をただよい始め、こっぴどくちらかり、そこらへんで満ち充ちる。境がかすんでぼやけ、あいまいになり、どうしようもなく拡がってゆく。もうすっかり雨や草や石と同じになっている。

 

みることはみられることの中でしかなりたたないと人はだれしも知っている。みることはみるものがみられるものと蚕食しあうことであり、みるものをみられるものへとうち開く。みるものとみられるものを区別できなくする。鏡と父性は忌まわしい。宇宙を拡散し、増殖させるがゆえに。というのは南米のどこかの人のことばだけれど、もしそうだとしたら、この世はあまりにも忌まわしいものがあふれすぎてはいないだろうかと思う。

 

博物館は灰いろのかたつむりさながらねそべっており、入り口をぬけるとまず最上階へとあげられる、建てもののかたちにそって大きなゆるやかならせんをえがきながらだんだんとおりてゆく、四十六億年前から始まり、細菌類が発生し、藻類がうまれ、その一部が輪郭の定かではないものに転じ、固い歯や角、殻を得、爆発的にふえたかと思うとまたぞろいなくなり、その一部が陸上に出、牙がでて羽がでしゃべり、とうとう恐竜をうみだすまでを、その足であらためてたどりなおすことのできる設計になっている。いちばん底にあたるところが、このあたりの河の岸からみつかったとかいう偉大な大きな化石の展示場になっているらしかった。が、こうしてわざわざやってきたのはそれをみるためなどではなかった。

 (つづく)